少し振り返りの更新になってしまいましたが、
2月19日に太陽が魚座入りして、昨年の春分から始まった黄道12宮の旅の、いよいよ最後のステージに突入です。
この最後の魚座では、今回の旅で成長・完成させた「私」がその源であるセルフ(自己)に帰り、そこで一度、全ての「私」を融解する。
つまり’「私」の死’のプロセスになります。

’私の死だって?いやいや、私は死んでないよ。現にここにいるよ。’
と思うかもしれませんが、そもそも「私」とは誰なのか?
自分で「私」だと思っている「私」は本当に「私」そのものなのだろうか?
私という真実の全てなのだろうか?
もしそうであれば、誰かが定義している「私」と自分が思う「私」が常に完璧に一致するはずで、
互いの想いも以心伝心で人間関係のいざこざなど起こるわけがない。
それに、「私」に対するセルフイメージや「私」の思考は一瞬一瞬、完璧に同一であるはずだ。
しかし、(もう言うまでもないが)私達は誰かの一言ですぐに考えが変わったり、
常に感情も揺れに揺れて、言動の一貫性もいとも簡単に崩れる。
そんな「私」が、’これが「私」である’を全うに定義しているかと言えば、明らかに答えはNOだ。
しかし、
’全てではないが、それも「私」ではある’
とは言える。
「私」とは、魂が設定したセルフがもつあらゆる可能性の中の選択したひとつの側面に過ぎない。
有限の物質世界である地球上で、有限の肉体を一時的に纏った(無限の存在である)魂が、
人間としての有限の人生を通して、
セルフという自分を知り、成長するために、
沢山の「私」のバージョンを選択して、貪欲に体験するのだ。
そのために、既に選択したバージョンの「私」が体験したことは、
形をもたない記憶とエネルギーになり、
「全てなる私」であるセルフの中に一度、溶かされる。
まるでひとしずくの「私」が吸い寄せられるようにセルフの大海原に流れ込むように
融合して、全てが繋がりひとつになる。
「私」の体験の記憶もその’全てなるひとつ’として共有する。
この無限の「私」の可能性を秘めているセルフの海の中で、
時空を越えた未体験のバージョンの「私」の可能性を探り、選択して、
そして次の新しい体験の始まりに備える。
これが魚座の世界です。
魚座の世界のステージの大きなサイクルは、1年の内の春分までの約1か月のこの時期にあたるが、
実は私達は日々の生活の中で魚座の世界を体験しています。
それは睡眠中であり、何かを想像したり、過去や未来に思いを巡らしたり、
瞑想や妄想(笑)、形にないものから何かを創造している時、
音楽や映画などの作品の背後にある誰かの夢や想いに触れた時、
そんな時は私達はいつも魚座の世界にいるのです。

ところで先日2018年2月22日(→11(2)/2/22)に
「2」の数秘エネルギーが働くポータルがオープンしました。
この時、
今回の黄道12宮の旅の終着地に辿り着いた今回のバージョンの「私」が
無限の可能性の海に完全に溶けて、まさに再び’セルフのひとつ’になった瞬間でした。
そして、それはまた同時に、
次の春分(3月21日)から始まる新たな旅(サイクル)で、
今度はどんな「私」のバージョンを体験するのかを
決めていくプロセスに入ったことを教えてくれました。
22日のこの日、長らく使ってきた急須の取っ手がちょっとしたことで割れました。
それはまるで、’このサイクルで選択されていたバージョンの「私」の終わり’をお知らせするかのようでした。