ブログの更新がなかなかできないまま、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
私達は肉体をもって地上で生きる身として今だに時間や空間の制限はあるものの、このマテリアルワールドは随分と可変的で柔軟に変化させることが可能になってきていることも日々、実感しています。

久しぶりの更新で、少々仰々しいタイトルとなってしまいましたが、事の始まりはこうです。
春の息吹の真っ只中、ある日、家の中にいた時、外から何かこちらに向かって訴えるような鳥の声が暫くの間、聞こえたのです。別に鳥の声を聞くのは日常茶飯事で、山に囲まれた郊外に住む私にとって何も特別なことではありませんが、この時だけはなぜか、この姿の見えぬ鳥が私に向かって何かを訴えているように感じたのです。
そしてその時、ふと思い出したのが、アッシジの聖フランチェスコのことです。私は無宗教ですし、宗教に対して何か特別な興味があるわけではないのですが、なぜかイタリアのアッシジには2回行っています。また今、読んでいる本の中に聖フランチェスコの逸話が紹介されていたり、最近アセンテッド・マスターのオラクルカードを引くと、よくこの聖フランチェスコが出てくるのです。すごいシンクロですし、今の自分に強いメッセージ性を感じていたところでした。
聖フランチェスコは、風が吹き、陽光を肌に感じた時、神が彼を撫でてくれていることを知っていました。神の息吹が彼の肌にかかっていることを知っていました。雨や泥は、神の存在そのものだということを知っていました。動物の鳴き声を聞いた時、彼は神の一なる声を聴いているのだと知っていました。彼は、「全ての中に神は存在する」ということを悟っていました。(引用:I come as a brother バーソロミュー)
全ての音は神の声であると知っていたので、父親に家を出ていけと言われた時も拒否することなく、「次に進む道を示して下さり、ありがとうございました」と感謝したといいます。
*神とは、絶対無限の創造の源、無条件の愛、宇宙のエネルギーのことです。
そこで冒頭の鳥の声ですが、聖フランチェスコにならいこれも神の声だとすれば、’神は何を私に伝えようとしているのだろうか’と、ほとんど無意識的ですがふと尋ねました。
’全ての音は神の声である’
聖フランチェスコの父親が例外なのではなく、全ての人間の発する言葉にもそれは表れるといいます。
私達は日々、他者と言葉を何気なく交わしていますが、それらが皆、神の声だとしたら。
そして、この数日の間、私は直接的ないし間接的に、時には国境も越えて、何とほぼ同じセンテンスを何人かの人の口から聞くことになったのです。
「私達は愛でしかないんです。愛そのものなんです。ひとり残らず全ての人が本当に愛されているんです。それを感じられないのは、ただ気付いてないだけなんです。」
どうやらこのメッセージが、鳥の鳴き声に対する私の問いへの返答のようです。
そして、これを読んでいるあなたもこのメッセージを、神の声として聴いていることになるのです。