こんにちは。今回、9月2日14:22に起きた魚座・満月に関する記事のアップが随分と遅れてしまいました。
前もって記事の準備はしていたのですが、今日の今までこの時期に集中的に仕事が立て込み(外部から妨害が入る笑)、じっくりと記事を書く時間がなかったのですよ^^;。
まあしかし、何せ魚座・満月だけに浄化力が半端なかったですね。個人的には月が魚座にある時はどうも思考力が鈍るので少し苦手なエネルギーなのですが、今回の魚座・満月はその濃霧かかった思考に明晰さの光が差し込むような、深遠な気付きのある満月に感じました。(また雨が降ったり晴天になったりと天気がコロコロ変わる中で変化する満月の様相も不思議な感じがしました。)
今回の魚座・満月は私達の意識の在り方のひとつの区切りと、ここから先へ向かう意識の大きな転換の具体的な一歩を示してくれるような重要な節目であるように感じます。
振り返りという形ですが、今回の魚座・満月からの流れにある’今’とこれからの意識の方向性について書いてみたいと思います。
満月となる月と太陽だけでなく、それ以外の天体の重要なアスペクトが見られました。特に4つの天体配置を結んでできる長方形(ミスティック・レクタグル)はとても珍しく強力なアスペクトが形成されました。
■「土」の時代の終結
今回の満月は、そのホロスコープの「土」のエレメントの天体や感受点で作り出す大きな三角形(グランド・トライン)と、満月という「到達点・完了」を表す月のサイクルの組み合わせからも、「土」の時代がとうとう終結したことを示しているのかもしれません。
占星術でいう’時代’とは’時代精神’のことで、特にこの2020年は約250年続いた社会的価値が物質主義に根付いた「土の時代精神」が終わる年でもあることは、ここでもこれまで何度も書いてきましたし、実際に多くの人が(占星術界隈のみならず)伝えています。
実際に世界中で起こっている出来事をみても誰の目でみてもそれは明白ですよね。今回の新型コロナウイルス感染拡大にしろ、既に実体のなかった資本主義経済にとどめを刺したに過ぎません。世界経済フォーラムが毎年主催するダボス会議の来年のテーマは「資本主義経済のグレート・リセット」に決定していますしね。
日本でもつい先日、憲政史上最長となった第二次安倍政権が幕を下ろすことが発表されました。国政、金融、社会構造やシステムも「土」の世界ですから、ただ今まで通りの在り方や方策はもうこれからは通用しない時代になるのではないでしょうか。
■所有という概念そのものがなくなる
「土」の世界は言ってみれば、何かしら見て確認できる、形ある物質の世界です。社会がその世界に価値を見出していた「土」の時代では、資本主義の煽りも受けて、どうしても「より多くのものを取得すること=価値がある、成功」と捉えられてきましたし、それにならって必ず勝ち負けの競争を生むピラミッド構造がどんなところでも(個人の人間関係などにおいても)当然のようにありました。
しかし、「土」の時代の終結が現実レベルで起きるプロセスの中に、「所有する」という概念そのものがなくなっていくというのがあることをこの満月が示唆しているように感じます。
’何かを所有する’ということは、これまでの「土」の時代の私達にとって、人生の目的やゴール、生き方そのものになっており、そして、それがために欲求や執着に振り回され、苦悩や葛藤の原因にもなっていたように思えます。
ところで、’所有する’という意識の焦点は何を表しているのでしょうか。
’所有’につきものなのが、普段、私達が当たり前に口にする「私のもの」、「私の〇〇」という言葉です。言葉は、そこにその概念や思考があり、そこからそれに準じた行動に移していく人間の理性や知性を表します。
私達が、「私のもの」と考えるものには、
というものがあると思いますが、これらはそもそも本当に「私のもの」なのでしょうか?
ということを私達の意識に突きつけてきているように感じます。
■「<私>のもの」など何一つない
本当は、「私のもの」だと信じているものの何一つ私のものではないのではないでしょうか。
<私>は何かを所有するにあたって、世界(他者)との関わりなしではそれは成り立ちません。
<私>が何かを獲得する(例えば、買うとする)という行為においても、その原材料やエネルギー源は全て地球が作り出したものであるし、またモノによっては誰かがその原材料を育てる、加工するなどして手を加え、さらにそれを運ぶ人、売る人や場所(店)が必要になります。
そして、そのモノを<私>が自分の意志で買うことを決断し行為しているように見えて、実はそのように仕向けられた無意識的な動機(例えば、憧れの誰かが使っていたとか、企業のマーケティング戦略など)によって、影響されていることが多いです。実際、ネットで買う商品や視聴する動画、検索する情報などはGAFAなどのIT企業が導入するAI分析によって勧められているものを私達は自分で選んでいると思い込んでいたりします(グーグルやアマゾンは家族や友人より、もしかしたらあなた自身より誰よりもあなたのことを良く知っている笑)。
第一、私達の趣味嗜好や行動パターンがなぜAIによってデータ分析することが可能なのか考えてみるとよいかもしれません。
おそらく、それは私達の行動のパターンが過去の体験に基づいた、無意識的な自動反応の繰り返しであるということにあるのではないでしょうか。
そして、この現実世界で行動の主体となる自分の肉体も「私のもの」だと私達は信じていますが、その’私の’肉体でさえ、自分の自由意志で動かせるのは全体の僅かな随意筋のみであり、心臓の拍動も腎臓で血液を濾すのも、血管の収縮も自分の体のほとんどのことが把握できていないし、自分の意志で動かせません。
「私のもの」というものは、実体がなく幻想だということではないでしょうか。
<私>が存在し、自分の心と体を有し、私の決めたことと行動によって得たものがまた<私>というアイデンティティをつくっている、という本当はとても曖昧なものなんだということです。
むしろ、そんな<私>の存在や「私のもの」成り立たせているものは、実は世界(他者)の側であり、また自分の意志の及ばない無意識にあるのだということではないでしょうか。
実は<私>とは、自分の体験を支える舞台としての世界と他者、そして、無限の未知の可能性である無意識の中にあり、また同時に肉体を纏った存在として物理的に世界に働きかけをする微かな自我意識をもった実体のない概念なのだということではないでしょうか。
個人的に、私達が<私>という自我意識に埋没したままの状態では世界に本当の平和は訪れないのではと思っています。
<私>は「私のもの」に欲望し執着します。
それは、同時に「私のもの」を失う恐れを生みます。
さらに、私達が「私のもの」と言う時、<私>と<私以外のもの(世界や他者)>の分断(分離意識)を強化します。するとこれがまた、より「私のもの」を増やし保持しようとする欲望を刺激し、世界と分離した<私>はいつも物理的な限界に怯え、孤独を感じ続ける、というパターンがループするだけです。
<私>と世界や他者が分離した意識の状態で、本当に誰かを想い、無条件に愛することができるでしょうか?
これは倫理観や思考法の問題ではありません。意識的な気付き(腑に落ちること)と、実際に意識の変化が起きないと事態は変わらないと思います。
<私>は初めから何ももっていないし、一度も何かを獲得したこともないのだから、失うことへの’恐れ’もまた幻想なのだと気づいた時、私達の心が解き放たれて、本当の意味で自由と平和を経験するのではないでしょうか。
・・・・というのが、先日の魚座・満月から感じていることでした。
さてさて、世界の側(状況や他者)によって今回のこの記事のアップが遅れたわけですが、それが起きたことの意味についても私自身いろいろ感じるものがありました。
というより、本当は少し前から思っていたことではあったのですが、新月や満月のタイミングで必ず記事をアップするパターンにマンネリ化を感じていました。固定した安定パターンがちょいと苦手な私としては、これからは好きな時にその時感じたことを赴くまま書いてみるという(初期のブログのように)ようにしてみようかな、と思っています。
相変わらず月のサイクルは大切にしていきますが、この記事のパターンはもう皆さんも飽きたでしょう?(なんて・・・笑)
毎回、新月&満月の記事を楽しみにして頂いていた皆さんには有り難く感謝しております。今日もこれを読んで下さっているということは「おや?今回の満月の記事はどうした?」と思いながら毎日見に来て下さっている方なのだと思います。本当にありがとうございます。
今後、今回のように新月や満月になっても記事のアップがなくても心配なさらず、’サボってるな(笑)’なくらいに思って頂けたらと思います。
そして、私の記事に限らずですが、時々は意識的に全ての外部からの情報をシャットアウトして、自分の感じ方や心の声に是非、耳を傾ける時間をとることもとても大切だと思います。
それでは、また。