こんにちは。
1月25日に水瓶座で今年最初の新月となりました。
個人的に1月20日に太陽が山羊座から水瓶座へ移った辺りから、切り替わりをかなり明確に体感しました。それは、長き古いエネルギーが一掃&解体され、新しいエネルギーが流入して再構築されていくような感じです。
それを体感させられる具体的な出来事もありました。まず、大事にしていたモノが割れたこと。そして、出血したことです。
どうやら、そのモノを手に入れた時と現在の自分の波動が一致しなくなったため、割れてしまったようです。
今回割れたモノを手に入れて約3ヶ月ほどしか経っていないのですが、この期間はまさに自分にとって激動のストレスフルな時であり、だからこそ、毎日、それを使うことで癒やされました。短期間とはいえ、とても思入れの深い、共に大変な時を乗り越えた仲間のようなそのモノが割れた時の心の衝撃といったら・・・。
そしてさらに、まるで映画のワンシーンさながらにそのモノとの別れが迫っているを感じ、愚かにもその割れたモノを慰めるように触れた時に指を切って出血したのです。
出血をしている自分の指を見て、なんとも不思議な気持ちになりました。
ここ何年も怪我をしたとしても出血したことがなかったので(なぜか?笑)、自分の中に本当にこういった赤い血が流れているという実感がいまいちもてなかったのと、そして、目にしている自分の肉体からの出血が、自分の中で、もはや不要になった何かが自分の外に流れ出ているように感じたのです。
そもそも血は、自我である<私>が肉体として存在していることの証をつくり、また、<私>の感情や思考を乗せて全身を巡って脳に<私>という人格像を刷り込ませる象徴的物質でもある。さらに血は、<私>個人を越えて他者とを宿命的に結び付けるいわゆる’血の繋がり’をつくり、そして、それが血族(身分)、宗教、国家などに発達して、益々、自我が肥大化し、<私>を肉体とこの時空間に縛り付けその存在を確固たるものにする。
この赤い液体物質に、人間は無意識に支配され、これがために世界中で歴史的にも翻弄され同じこと(過ち)を繰り返しているということを俯瞰していく・・・・といったようなことが、山羊座の次の進化のプロセスである「水瓶座」のサインで起こったのがこの新月なのでした。
肉体・物質・現実化した山羊座の世界で創った構造やルールといった「形」を一度、解体して、そこにある本質を見直し、それを形にこだわらない「概念」として再構築していくのが水瓶座の世界です。
しかし、このように言葉にするのは簡単ですが、実際にどうやって山羊座の世界がつくった「形」を解体していくことができるのでしょうか?
そもそも、山羊座の世界でつくりあげた「形」は、ルールによって区切られた枠組みの結果でもあります。
では「ルール」とは一体なんなのでしょうか?
それは、’社会的正義という名の下、秩序や規律をつくり多くの人を安全に守るもの’と言えば何となく聞こえが良いですが、実は「〜してはいけない」という’絶対否定’とその他の選択や可能性の’徹底排除’を基盤にしていると思うのです。
多くの人、特に日本では当然としてルールに従っていることが多いので、普段、この事実に気付きにくいかもしれませんが、問題は、誰かがルールを破った時です。
そんなことが起ころうならば、寄ってたかって皆でルールを破った者を大攻撃をしませんか?その者の人格や自己価値をズタズタにこき下ろし、皆で「罰を与えよ!制裁を!」と言わんばかりに激昂する。これはその者が皆の前で人としての屈辱的な恥に晒されながらの陳謝をするか、皆が納得する罰が与えられるまで続きます。
それは身近な人達だけでなく、どこかの国の王家のことだとか、スキャンダルを起こした有名人だとか、自分が直接、知りもしない人達までも。
なぜ、人々はこんなにルールを破る者に対して残酷なまでに攻撃をするのでしょうか?
それはルールというのは法律だけでなく、常識、マナー、しきたり、モラル、社会的価値判断といったものも含まれ、これら私達が幼少期から刷り込まれてきた<私>が属している世界(保証や安心)そのものが揺るがされると感じる恐怖なのかもしれません。
もしくは、本当はそのルールに抑圧されているが我慢している緊張や鬱積した怒り、適応できていないという劣等感からくるのかもしれません。
しかし、これらはそもそもルールが存在することによって起こっているのではありませんか?
ルールによって、世界は、私達は「否定されること」が前提になってしまったように感じます。
身近な人間関係の衝突の多くはここにあるのかもしれません。私達各々が個々の正義(正しさ)の下、相手が間違っていると’否定’し、自分のルール(常識、価値観)に従わせるために相手をコントロールしようとしてしまう。
これが人間関係の全ての苦しみの大元なのかもしれません。
そして、そもそもこの他者や世界「否定する」在り方は、実は私達が自分自身に対する在り方そのものなのかもしれません。
ルール = 否定 = 枠組み = 制限
これらはあまりにも今まで自分の中で当然過ぎてなかなか気付けないかもしれませんが、目の前に現象(出来事)として現れた時の自分の感情や思考の自動反応に注意することが大事なように思います。
自分はなぜ、そう感じるのか?
自分はなぜ、そのように思ったのか?
突き詰めてみると、実はそこには何の根拠もなかったという事実に気付いたりするものです。
もしかしたらこの時期、今までの自分の信じてきた世界の見え方が一瞬でひっくり返されるような出来事が起きるかもしれません・・・^^。