【水瓶座・満月】全ての人間は星である

まだまだ酷暑が続く毎日ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

2024年の流れを見るワークショップの中の予測通り、この8月、特に中旬をピークに外側の世界で多くの人が認識するような強烈な出来事が勃発しました。

この事象を神秘学的にとらえるならば、私たち個人においても自分の内側の世界でそれ相当のことが起きているという人も少なくないのではないでしょうか。

そんな中で8月20日3:25、水瓶座・満月を迎えました。

満月は約29日という小さなサイクルの重要なステージの一つでもあります。

(一般に満月のステージで起こりやすいこと)

  • ここまで積み上げてきたことが頂点に達する。小さな目標であれば新月、大きな目標であれば半年前から始めたことにはっきりと結果が出る時。
  • 物事が成就する時。大きな節目、分岐点、重要な出来事が起こりやすい
  • これまで潜伏していた問題が表面化しやすい
  • 増幅作用(むくみやすい、太りやすい、感情が高ぶりやすいなど)
  • 外向的なエネルギー(活動的、積極的に外側へ向かって動かす、使う)
  • 顕在意識(マインド、建前)と潜在意識(ハート、本音)の衝突と葛藤

ですが、さらに今回の満月は水瓶座で起こる、ということもとても意味深く感じます。

それは今年の11月下旬からいよいよ始まる冥王星・水瓶座時代へ突入するにあたって、言わば通過儀礼のようなことが全ての人にこの満月の前後1ヶ月ほど起こっているのではないでしょうか?

それはなかなか強烈で半強制的に向き合わざるを得ないようなことが具体的な出来事として、または心理的なものとして誰もが体験しているように思うのです。

これは一見、ネガティブな体験をさせられているように思えますが、実は「直視したくない」、「感じたくない」とこれまで避けてきた恐れや不安、苦しみ、怒りなどの私たちの捉え方を、水瓶座のルーラーである天王星がひっくり返して全く違った見え方を促し、そこに完全な美しい調和を見出す機会を与えてくれようとしているのです。

そんな今回の水瓶座・満月において私たちの意識がフォーカスされるであろうテーマについて、占星術、数秘、タロットなど形而上的な観点から直観したことをシェアさせて頂きたいと思います。

〜水瓶座・満月(8月20日)〜

自分があるがままに在るという「自由」

水瓶座の性質のキーワードの一つでもある「自由」。

自由という言葉はもともと仏教用語であり、「自らに由(よ)る」という意味からきている。

そこには、西洋的な「自由(Freedom)」が意味する、自分の外側の抑圧や制約する何かからの解放という消極的なニュアンスはない。

「ただ在りて在るように在る」

といった、シンプルに自分の本質のままを生きるという’自然さ’を表している。

つまり「自由」とは、自分という命をその生まれもったままの形や性質に従いながら、自分の中から溢れ出てきた情熱、喜び、インスピレーションを外に向かってそのまま表現している、積極的でありながら力みのないリラックスした在り方ということになる。

禅の世界ではこういった自然な生き方を「純」と呼び、今回の水瓶座・満月では、「自分の純粋性(本質)を遊ぶように生きる」という形で、水瓶座・月の真向かいにある獅子座・太陽が誘(いざな)っているように思える。

自分の純粋性とは異なる他の誰かや何かになろうと作為的に意図して取り組もうとする時、緊張や力みが入った「努力」を必要とする。

本来、自分の純粋性を生きるためのものははじめから既に全て自分の中にあり、そこで中から自然に湧き上がり、感じるものを情熱のままに伸び伸びと無我夢中になっている行為が「遊び」であり、そのような状態に在ることが「自由」なのだ。

つまり、内包する自分独自の純粋性(本質)を自然に生きる「自由」であることが、その命を真に光り輝かせるということになる。

Every man and every woman is a star. (全ての男女は星である。)

By アイレスター・クロウリー(イギリス人魔術師)

トートタロットの製作者でもあるクロウリーは自身の神秘哲学から、‘全ての人間は本来、ひとりひとりが永遠の光り輝く魂であり、それはこの物理的世界において「恒久的に夜空に輝く星々」として反映されている’と直観したのだろう。

なるほど、確かに「夜空の星の数と地上の人間(既に亡くなっている人も含め)の数は同じだ」と主張する人たちがいる。

目の前の世界を自分の心の表現として観る

私たちが自分の本質を自然に生きる「自由」な存在である時、目の前の事物や事象というのは、実は自分の心の中でとらえたものを観ている(体験している)のだということに気づく。

なぜなら、「自分が今、ここに生きている」というライブ感は自分の中で感じとっている内的な感覚だからだ。

だから、目の前の世界から受け取り、見出すものは全て自分自身そのものだということになる。

そして、そこから自分の感受性や直観がとらえた真理を今度は世界に向かって、言葉や音、体を動かす、微笑む、態度などで’自由’を表現することで、世界が、その中にいる誰かが、それを内的に受け取り、そして表現したものをまた自分が内的に見出す・・・・というのを繰り返す。

こうやって自分と世界は本当は対面して分離されたものなんかではなく、その関係性においてお互いの存在を支え合い、内的に(心で)一体となっている。

ここで世界というのを「事物、事象(出来事)、他者」であれば、これらが営む予期せぬ一連がもたらすものを「運命」と呼ぶのだろう。

だとすれば、自由を生きることによる世界との一体化は、運命とも両立できるのではないだろうか。

つまり、「自由」と「運命」を表裏一体のものとする。

これを成立させる視座は、日々の何気ない些細なことの中にある美と神秘を通して、フラクタクルな万物を観ることによって得られるのかもしれない。

その時、私たちの日常はもはや一変するだろう。

これは、これから私たちの眼前に差し迫っている冥王星・水瓶座時代の世界の幕開けを示唆しているのだろうか。