【イデア・コスモロジー】<わたし>と<あなた>
この地上にあって、見つめることと食べることは別である。
どちらかを選ばなければならない。
どちらもが愛の対象として呼ばれている。ただ時々、食べる代わりにしばらくの間でもじっと見つめていられるという人々だけ、いくらかでも救いの希望がある。
一人は果実を食べ、もう一人はそれを見つめている。魂の中の永遠の部分は飢えを糧として生きる。
シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」
〜ウパニシャットの古い伝承の逸話を受けて〜
<わたし>は<あなた>を知っている。
<あなた>を覚えている。
外的な太陽の逆光が照らすこの世界に<あなた>はいないが、<あなた>が確かに存在することを確認できる影は観ることはできる。
その影とは、かつて<あなた>の思いが創造したものだ。
言ってみれば、今、<わたし>は<あなた>が創造した世界を受け取り、体験をしている。
その世界を体験することで<わたし>は<あなた>を感じことができる。
そして、<わたし>は<あなた>の創造した世界の体験すると同時に、別の世界で次に<あなた>が受け取るための世界を創造している。
<わたし>と<あなた>はそれぞれが創造した世界の中では決して出会うことはないが、
このすれ違いは縦糸と横糸が交互に紡ぐように
朝(太陽)と夜(月)が1日のリズムをつくるように、
世界の創造と受け取りを生命の躍動をバトンしながら、お互いの創造を支え合っている。
これが世界を創造している「愛の法則」だ。
お互いが創造した世界の結晶に触れること(体験)を通じてお互いの愛を感じることができる。
それは自分の中で、内なる太陽の中で。
かつて<わたし>が世界を創造する側にあったとき、
<わたし>は<あなた>が創造した世界を体験している<わたし>の器である’私の体(人間の肉体)’を創造したいと欲望した。
そして、その’私の体’の全体像を、特に「私の顔」を外から目撃することを望んだのだ。
<わたし>は<わたし>自身の全てを、<わたし>の顔を見てみたかった。
<わたし>は<わたし>の目を見つめてみたかったのだ。
しかし、<わたし>は今、’私の体’の全体像を、まして’私の顔’を’直接’見ることができない。
<わたし>が見ることができる全体像は、<わたし>の中と目の前の<あなた>が創造した世界とそこに現れる’他者の体と顔’だけだ。
そして、他者の目を見つめ、見つめ返される神秘的な経験をしている。
そうなのだ。
他者は’私の体と顔’の全体像を、私の眼差しを直接、見ることができるのだ。
今、他者が見ている世界、体験している世界は、かつての<わたし>が創造した世界だ。
そして、<わたし>は(彼/彼女自身は自分で見ることができない)’他者の体と顔’の全体像を目撃することができるのだ。
もしも、かつての<わたし>の欲望が叶ったのであれば・・・・、
ここに’私の体と顔’があると思い込んでいた<私>という幻想の観測点である’私の体’から見ている’他者の体と顔’こそ、かつての<わたし>が創造した’私の体と顔’だということにならないだろうか?
・・・<あなた>よ、決して出会うことのない背中合わせのもう一人の<わたし>自身よ。
内なる双子の<あなた>よ。
創造は、純粋な光としての2つの内なる太陽の表と裏で支え合っている。
<あなた>が創造したこの世界において、
<わたし>の前に現れた他者だけでなく、まだ現れていない、そしてこれからも決して現れることがないすべての他者を通じて、<わたし>は’私の体と顔’を観測するという体験をする。
想起的な記憶からやってくる想像を通して。
他者の体の全体像と<わたし>に向けられたその眼差しを通じて。
<わたし>と<あなた>は共にあって完成する。
<わたし>と<あなた>は共にあってホームになる。
おかえりなさい。そして再び会おう。
互いの内なる太陽の「はじまり」と「おわり」の交差する永遠の中で。