【乙女座の月蝕〜春分】ついに”運命の待ち人”いよいよ現る?!

結局のところ、人生という体験の神秘が意味することとは、
’この世界で他者とどのように関わったのか’
ということなのかもしれない。
なぜならそれを体験している主体としての自己自身は
この世界に存在していない本質的に孤独であるから。

人は物心ついた時から誰に教えられたわけでもないのに、この世界のどこかに自分の全てを理解し愛してくれる完璧な理想の人がいるのではないかとなぜか信じているところがあり、人生の中で無意識にその人を探していたりする。

それは人々が”運命の人”と呼ぶ存在なのか。

多くの人は自然の法則と世法に従った日常生活の中に<わたし>の居場所を見つけ、同じようにそういった居場所と自己同一化した他の<わたし>達とつながった’社会’の中で生きる。

社会とは皆が信じている共同幻想の世界。

それはこの世界が全て物質的なもので造られているという科学的な証明で担保された”客観的な概念の世界”であり、その概念でつくった時間と空間の中に私たちが存在しているという、これまた概念の世界のことだ。

人はその世界の中で自分は存在していると思い込んでいるから、”運命の人”を熱望し、探そうとする。

なぜなら、”運命の人”はその世界の中にはいないということをどこかで知っているからなのかもしれない。

”運命の人”は、唯物論の科学が強化し続ける客観的概念が作り出したこの三次元時空の物質的な世界、ないし社会(世間)の外部に存在する。

つまり、”物理法則や世法といった概念がつくられた法”の外に存在するのだ。

380億年前にビックバンによって創造された宇宙の中の地球という惑星で時空の中で閉じ込められ(ていると思い込み)、先祖代々続く家系の中で両親がたまたま出会って結婚して生まれた肉体をもって社会的通念で定義されるような存在で、人生は死んだらそこで終わりというような意識の世界の中では決して”運命の人”には出会えない。

ではどうしたら出会えるのか?

占星学的に新年(宇宙元旦)は、太陽が牡羊座0度に入るタイミングである春分のことをさす。

今年2025年の春分は3月20日であり、ここから新しい年が始まると考える。

’最初のはじまりにはここから先の未来の全体像が全て畳み込まれている’

占星学の土台となっている神秘学ではこのようなフラクタクル構造で世界を捉えるため、春分図でこの一年のテーマを読むことになる。

春分図で読む今年2025年のテーマは、まさにここまで述べてきた意味においての「運命の待ち人、いよいよ現る」ということなのではないかと感じている。

そしてこのテーマは、先日3月14日の乙女座の月蝕から始まっている。

3月14日15:55の乙女座の皆既月蝕のチャート

3月14日の乙女座の月蝕は、この世界に生まれる前に約束してきた魂的な縁(繋がり)を表すドラゴンヘッド&テイル(別名ノード)で起きている。

魂の記憶(過去生など)や「今生、手放していく必要があること」を表すのがドラゴン・テイルで、魂が体験したいと設定した新しい未来の自分への羅針盤であり「今生、乗り越え獲得していくこと」を表すのがドラゴン・ヘッドである。

14日の乙女座・月蝕では、月があった乙女座にドラゴン・テイルが、太陽があった魚座にドラゴン・ヘッドがあり、このテーマは今年1年ずっと続く。

先ほどからこの月蝕から2025年のテーマが始まっていると書いたのは、月蝕も春分も7ハウスという「他者」を表す地上の場所に<わたし>という自我意識を表す太陽が入っているのだ。

それと先ほどの魂的な縁を表すドラゴンヘッド&テイルを掛け合わせてみる。

イマジネーションや直観を通じて精神世界を観る霊的意識を表す「魚座」と、目の前の具体的な事物の細部を通じて物質世界の秩序を理解する物質的意識を表す「乙女座」。

他者を肉体をもった物質的な対象物として捉えている限り(乙女座のドラゴン・テイル)、その外側に存在している”運命の人”には出会えない。なぜなら、”運命の人”は霊的意識が観る精神世界に存在するのだから(魚座のドラゴン・ヘッド)、ということか。

そんな”運命の待ち人”とは一体何者なのか?

そもそも”他者という存在は、<わたし>を存在させるために<わたし>でないものの他の全てとしての<あなた>である”、ということが起点になる。

(これを考えると、<わたし>という存在は、そもそも他者との関係性に依存し影響し合っている、常に移ろいだ捉えどころのないものと言えないだろうか?)

じゃあ、どのようにしてこの<わたし>と<あなた>の二者があることを認識できているのか?

それは、この<わたし>と<あなた>を観察している、この二者を統合させている一つ上の次元の意識があるということだ。

このメタな意識から見る<わたし>と<あなた>とはそれ自身の中にある”自己性”と”他者性”という二元性であり、それ自身をどちらの方向から観察するかの表裏の関係性を表しているに過ぎない、ということになる。

このメタな意識は、物質世界で肉体を持った自分自身と他者という分離された存在としてではなくそれ自身の表裏一体のものとして観察している自己の本質そのもの(ハイヤーセルフといってもよい)のことだ。

この自己の本質は顔も名も持たない。もはや「わたし」とは名乗らない非人称の(我がなくなった)、それ自身の存在を内的に感じとっているものである。

この時、同じように顔も名も持たない非人称として目の前に現れる他者こそが、かの待ち焦がれた”運命の人”であり、「あなた」と「あなた」同士として対面し互いに互いそのものになる存在のことなのかもしれない。