魂のご縁の結び目である「蝕」の意味とは?

6月も既に終わりつつありますね。
今月はまだひとつも記事をアップしていないことに昨日、気付きました。

というのも、6月は目の前のタスクやイベントに追われていたというのもあったのですが、ターニングポイントになる日蝕や夏至の天体イベントもあったので記事を書くつもりでいたのです。

ところが、今月、自分の想像を超えるような意識レベルでの大きな転換を体験し、肉体も含めその新しい領域に慣れるためにひたすら集中していたら今日にまで至ったという感じです。

個人的な意識的体感として、今年に入った辺りから静けさの中の尋常でないざわめきと圧倒される何かを6月10日の日蝕をピークにずっと起きていました。ちなみに、この間、タロットを引けば「タワー(塔)」のカードが続出でした(笑)。

そして6月10日の日蝕を過ぎた途端、今までのその体感が嘘のようになくなり、ホッとして穏やさと安心感を感じるようになりました。その時、なぜか直感的に「これでもう完全に離れた」という言葉がハラに落ちました。

それがどういう意味なのか、今日に至るまで自分の中で直観したことを書いてみたいと思います。というのも、これはおそらく、私個人レベルでのみ起きていることではなく、共有する集合的無意識で起きているのではと感じるため、理屈ではなく響く人には深く響くのではと思ったからです。

とはいえ、あくまでも個人的な感覚のシェアであることはお忘れなく。というのも、これから明確な自分軸(考え)無しでの他者への安易な同調・同意は、ますます自己喪失へと向かわせるだろうと思うからです(これについても近々、書いてみたいと思っています。)

客観的な視点を保ちつつ、しかしながら、ひとつの実際的な(ぶっとんだ)体験のシェアとして参考にして頂けたらと思います。

魂のご縁の結び目である「蝕」の意味とは?

「静寂さの中の尋常でないざわめき」、「ただただ圧倒される」、「日蝕をピークに切り替わる」、「完全に離れた」

これらが今回、起きたことを理解するためのキーとなった(実際には他にもここまでの伏線となる点が多々あった)。

これを読んでいる人の中で、先日の日蝕の前後で同じように感じた人はいるだろうか?

もし感じたのなら、その時、あなたはどう思った?

・・・私はすぐに直観した。

これがいわゆる’パラレルワールド(並行宇宙)のシフト(移行)’なのだと・・・・・。

パラレルワールドについて、私もそれまで頭では理解していたつもりだったが、今回は体感と意識レベルで経験してみてそれが本当に存在していることと、それがどのように私達と関わっているのかがより観えてきた気がする。

パラレルワールドの分岐も、そしてその分岐からの現在や未来の流れも、永遠無数に今、ここに存在していて(多層現実)、実際に私達は無意識的、意識的にパラレルワールドの小さな分岐はしょっちゅう行き来して移行しているようだ。

小さな分岐の移行は、いわゆる「IF(もし〜だったら)」という、その時々の私達の意識(思考、感情)が選択したものによってもたらされる、その後の私達の人生の大なり小なりの結果の違いをもたらす。(選んだものが違っても結果が同じ場合、小さな分岐から伸びたタイムライン同士がどこかで接点をもっていて、結果が同じになる他の分岐へ移行できるからかもしれない。)

パラレルワールドの小さな分岐は、個人レベル、日常や人生の出来事やインパクトで影響するもので、程度の差こそあれ小さな泡(囲まれた円)の中をある程度、制限された予測可能な範囲内で動く意識、いわゆるこれが<わたし>という自我意識の可能性のことなのかなというのが、現時点での私の解釈だ。

そもそもパラレルワールドの分岐とは何か、なぜ、それが存在しているのかという点だが、それは「自分の意識の位置の移動(移行)」であり、意識の多角的視点や次元的視点を変えることで、自分の霊性(精神、スピリット、魂)が人間という器を使って無限の可能性の体験をしたい(これがいわゆる霊的成長といわれているもの)というものがあるのではないだろうか。

この点で、人生の意味とは、魂や精神からすると大いに体験すること自体を楽しむこと(ゲーム、遊び)に尽きるのだろう。(あらためて、人生におけるあらゆる喜怒哀楽、良し悪し、優劣は人間の自我的評価に過ぎないということ。)

しかし、多くの人間はその霊的な目的を意図的に忘れさせられて(答えが分からないから人生という遊びに真剣になれる)、<わたし>という自我の予測範囲内でしか意識を向けない。

意識を向けたパラレルワールドのひとつの可能性が、目の前の現実だ。

物心ついた時から、今、目の前で見ている世界が全てであると信じることは、本当は無限に存在しているパラレルワールドのたったひとつのタイムラインにのみに自分の意識を向け続け、人生を終えるということ。

さて、ここからがこのパラレルワールドの分岐が「蝕」とどう関係するのかについて。

’蝕’は、占星学の世界で、今生の<わたし>の顕在意識や肉体の体験を表す「太陽」の黄道と、時空を超えた魂の記憶・潜在意識を表す「月」の白道の交点(ノード)のことだ。(ちなみに、この交点で起こる新月を日蝕、満月を月蝕と呼ぶ。)

一般的に日蝕や月蝕を魂的なご縁のある人や物事と結びつけて解釈するのだが、今回の私自身の体験を通じて、「蝕」とはパラレルワールドの分岐のことなのではないかと直観した。

そして、今回の日蝕(6月10日)はパラレルワールドの大きな分岐(集合意識レベル)が起き、それまで移行の可能性としてあった他のタイムラインから完全に離れた、というのが今、一番自分の中で腑に落ちている。

集合意識レベルと書いたが、これは私の意識が属している集合意識グループのことであり、皆、それぞれの意識が属している集合意識がある。(もっというと、集合意識にも小さなものから大きなものまであり、小さな集合意識レベルでは別のグループに思われても、それらは同じ大きな集合意識に内包されていたりする。)

とにかく、集合意識の力は大きく、そこに属する個人の意識はその集合意識グループの選択したタイムラインに引っ張られる(=その現実をつくる)。

今回の日蝕で起きたことで言えば、私の意識が属する集合意識グループは、それまで別の集合意識グループと同じタイムラインにあったのだが、日蝕で違う分岐を選んだということなのかもしれない。

これを読んで下さっているあなたは私と同じに集合意識グループの意識とも言えるし、またはあなたのパラレル・ワールドの他のタイムラインのバージョンのあなたと繋がっている、ということなのかもしれない。

もちろん、パラレルシフトの体験の有無や違う分岐のタイムラインの良し悪しなんていうのはない。

どの分岐のタイムラインを選んだとしても、私達の魂にとってはいつもベストな選択をしているということだけだ。