【天秤座・金環日蝕】月の本能に喰われる太陽の理性
10月3日3:49天秤座で新月となりました。
今回の新月は(日本では見られませんが)金環日蝕であることから、ここから半年間という長期的な流れの新しいスタートになるのですが、特に今回の「蝕」はドラゴン・テイルと言って良くも悪くも過去生から引き継いでいる魂レベルでの「ご縁」においての強烈な「リセット&新しいスタート」が起こるかもしれません。
この「ご縁」については、今回の日蝕が天秤座で起こることから「対等な人間関係、パートナーシップ、契約や取引、約束」に関する自分とのご縁であり、ここにおいて「リセット&ス新しいタート」がありそうです。
そして、さらにこれには、「自分という存在の認識やセルフイメージの刷新」というテーマもセットになっています。
実は昨年から「蝕」が天秤座で4回起きていることから、個人レベルで天秤座が何かしら強調された出生図をもつ人はもちろん、これは今をここに生きている全ての人間の集合無意識領域への何かしらの大きなインパクトがあると考えられます。
この大きな衝撃は、私たちの本能からやってくるコントロールが困難な感情的うねりによってもたらされそうです。
今回の天秤座・金環日蝕がもたらすタイミングで、ここから約半年間、私たちの意識に焦点が当たるであろうことについて、占星学、数秘、タロットなどの形而上的な視点からシェアさせて頂きたいと思います。
〜天秤座・金環日蝕(10月3日)〜
太陽を喰らう月〜自我を崩壊させる本能の反撃〜
日蝕とは、太陽が月に喰われることだ。
地上を照らす太陽の光が月に覆い隠され世界が暗闇の中に沈む日蝕を昔の人は忌み、恐れ慄いたという。
しかし、古代神秘思想において現実世界を照らす(天体という意味での)物理的太陽は「自我的太陽」と呼んで、「私」という自分の存在を社会的概念によって支えている人格(社会的個)のことをさす。
つまり、自分という存在を顔と名をもつ「私は〇〇である」で定義し、〇〇には社会的な価値基準に基づいた価値観、数値やデータの相対評価で客観的な自分像(セルフイメージ)のことだ。
普段、私たちはこの客観的な自分像を社会に適応させるための仮面(ペルソナ)を付けてそれらしき自分を普段、理性でコントロールしながら生きているのだが、自分の心(本音)とこの仮面の合意のズレが生じると緊張状態をつくり、大きな葛藤を生み、生きることが苦しくなる。
仮面自体は悪いものではなく、むしろ、社会的な個としての側面の人間として生きるために必要なものだ。
ただ、問題はその仮面をどのように扱うかだ。もっと言うならば、仮面を付けた「私(自我)」を自分のどの意識の位置から認識(観察)するか、ということなのだと思う。
仮面を付けた自分の姿を外から、つまり他人の目を意識した見方で見る時、自分自身を理性で管理している客観的な自分像(社会的な人格)として「私(自我)」を認識するのか。
一方、仮面の中で欲望し、感じ、思い、考え、感覚して生きていることをリアルに感覚している「私(自我)」を認識するのか。
前者は自我的な太陽の「理性」であり、顕在意識。仮面は自分の心を覆い隠している。
後者は月の「本能」であり、仮面はおろかそもそも初めから顔などない、ただ内的に感じとっているものであり、無意識からやってきている。
昨年から数回にかけて起きた天秤座の蝕の仕上げとしての今回の日蝕は、社会的理性において「これが自分であると思い込んでいた仮面を付けた自分」としての太陽に抑圧されてきた月の本能が飲み込むことによって、一度、自我を崩壊させるのかもしれない。
もう本当は限界を感じていたこれまでの人格的な自我を顔も名もなきものとして無効化することで、仮面から解放し、新しい未来としての自我を再構築する。
「本当の自分」を発見するために。
真実の太陽の光とは?
仮面を付けた顔と名をもつ社会的自我としての自分が見つめる太陽の光は、自我的太陽から放射される光だ。
実はこの光は太陽の目の前に月の鏡のトラップによるもの。目の前のものを全て反射する性質をもつ月は、太陽の光も反射させる。
しかし、この月によって反射させた太陽の光は、ギラギラと騒々しく自我の欲望を掻き立てて、イリュージョンの世界に人間の意識を魅惑的に引き込む偽物の光。
表面的で短絡的なもの、刺激的なもの、目に見えるもの、物質的なものに心を奪われ、中毒的に欲望させられ、これが自分の存在や世界の全てであるという限界を見せられるのがこのイリュージョンの世界。
夜のキャルドルの明るく楽しげな炎の誘惑に耐えきれず、その中に飛び込んだ蛾が、焼き尽くされる苦痛の中で悲しみに打ちひしがれ後悔の涙して言った。
「偽りの光よ。これまでどれだけ多くの者がお前に騙された苦しんできただろう。私は本当の光が欲しかった。なぜ、太陽の真実の光とキャンドルの偽りの光を見極められなかったのか。」 (レオナルド・ダ・ヴィンチの手記より)
では、真実の太陽の光とはどこにあるのか?
それは顔も名もなきものとして、月の鏡が光を反射していない裏側の奥を、静かな絶対的孤独の深みの中で観ることができた時に感じとることができる「自分の中で輝いている永遠の火」のことだ。
目を開ければ惑わされ、目を閉じれば明かされる。
顔も名もなきもの同士としての繋がり
この日蝕でリセットされるご縁とは仮面を付けた顔と名をもつ社会的自我同士の、イリュージョンの世界の中で成り立っていた関係性だろう。
この月の鏡の反射のトリックを見破り、一度でも自分の中の真実の太陽の光を感じとった者にとってはもうその世界には後戻りはできなくなる。
しかし、まだここに月の鏡がもたらした呪縛が残っている。
月が反射させている光は、外から見られていることを意識した想像上の自分(イリュージョン)を他者の眼差しを通じて成立させているのだが、ここで自分を見つめる他者との間で生まれる「愛情」や五感で触れ感じたあらゆるものへの「愛着」が、イリュージョンだと分かっていても強烈な感情的な執着となって私たちを引き止めるだろう。
特に顔と名をもつ社会的自我としての自分にとって、身近にいて長い間、親密な情をもった相手ほど、過去の記憶に引っ張られやすく執着を手放せし難くする。
自分の中の永遠に輝く真実の太陽を感じとるのは、顔も名もない内的に感じとっている絶対的孤独の、唯一無二の不動の自己の位置を見出した意識だ。
それは‘今、ここ’をライブで躍動する生命を生きている心であり、常に変化生成し続けている精神のダイナミクスそのものとしての自己だ。
こういう自己同士で繋がる関係性は、同じ瞬間などない永遠性と瞬間性の交差点で出会うライブ・セッションのようなものであり、これこそが本当の一期一会なのだと思う。(目の前のよく知っている人であっても過去の記憶の中のその人であり続けることはあり得ない。)
顔も名もなきもの同士が互いの内なる永遠の火を見つめ合えた時に「永遠の我と汝」として縁が結ばれる。
この対等な双対の関係性は時間や空間の物理的な隔たりを超越する。
むしろ、この物質世界においては、離れている時ほどお互いを心で感じ、関係をより一層深めることができる。