【蠍座・新月】他者との関係性を通して起こる自己の純化

11月1日21:47蠍座で新月となります。

今月20日の冥王星・水瓶座入りから始まろうとしている新世界へ向かって、これまで通りにはいかない、もう後戻りができない流れがますます加速する中で今回は関係性、特に自分のアイデンティティの一部をつくっていた人間関係にスポットが当たりそうです。

単純にその関係性の変化や終わりという話ではなく、「そもそも自分が関わる他者との関係性とは何を意味しているのか?」というテーマについて、自分の存在や人生の意味も巻き込んで深く考えさせられることになるのだと思います。

今回の蠍座・新月がもたらすタイミングで、私たちの意識に焦点が当たるであろうことについて、占星学、数秘、タロットなどの形而上的な視点からシェアさせて頂きたいと思います。

〜蠍座・新月(11月1日)〜

 

誰かとのこれまでの関係性の変化

それは違和感から始まるのかもしれないし、明確な価値観の違い、もしくは今まではその関係性の在り方が当たり前だったのが「これは自分の望んでいたものではない」に気付いてしまうのかもしれない。

または人によっては抑圧してきた自分の気持ちが怒りとなってその関係性に決着をつけることになるのかもしれない。

一度、この自分の感じ方に気付いてしまうと、もう自分の気持ちが誤魔化せなくなる。些細なことでももう我慢できなくなる。

特に身近な親しい他者との関係においてこういったことが起こりやすく、動揺や躊躇いを感じるかもしれないが、もうここでは自分のその感覚に従い、場合によっては大きな決断が必要になる(これは人によっては自然な流れの中で軽やかにできる)。

この段階では自分や他の誰かが正しい・間違っている、善し悪しといったような基準で押し測れるものではない(たとえそのように見えたとしても)。

ただ起こるべくことが起きているだけで出来事自体はニュートラルだから。

どんな時も大切なのは、‘自分がそれをどのように感じるか’、ということ。

きっかけは相手を通してやってきて、それに自分が反応するという形で起こる。

これが自分だと思い込んでいた自分のアイデンティティが壊れて、これまで通りの関係性が変化したり、終了したりするということが起こるのかもしれない。

他者との関係性を創造した純粋性

ここから道徳や常識などの社会通念や、頭で考えるような論理的理性で人生を推し進めていくのは益々、困難になっていくだろう。その困難とは外からもたらされるというよりも自分の中の耐え難い葛藤のことだ。

自分の中の葛藤が分かりやすく外側に反映されたもののひとつが、身近な人間関係だ。

この加速する流れの中で、今回の蠍座・新月の布石は「自分をこれ以上、誤魔化して見せかけではいられなくなる」ということだろう。

私たちの意識の中の蠍座は、表面的な見える部分を見透かして深部にある見えない真実を直観的に見抜く。

ここにきて、見て見ぬふりができない、隠しても隠しきれない、抑えても抑えきれないという自分の気持ちは嘘をつくことができない葛藤を表している。

蠍座にとっての他者との関係性は、自分という閉じた秩序を開き、相手が自分の中に入ってくるのを受け入れることによって相手と繋がろうとする深い愛情によってなされる。

それは自分の命である心の一部を相手に明け渡すという、半ば死をも覚悟した強烈な変容を伴う。

それには自分と相手の心を、そして命を守るために「純粋性」が求められる。

ここでいう純粋性とは、誠実さや真心といった人間性に関わるということもあるが、そういった人間の経験的な意識さえもつくっているさらに根源的な本質である「原初的な自己と他者の関係性」のことをさす。

今、人間として体験しているあらゆる事象や関係性は、「私」という自我意識が生まれる前に、それを存在させるための「原初的な自己と他者の関係性」によって創造されたものだとしたら?

つまり人生の中で出会う全ての人、日常の中で関わるあらゆる人間関係は、「原初的な自己と他者の関係性」が創造したものが魂の未来の記憶としてやってきているものであるとしたら・・・・・目の前の他者を通した自分の心の動きや在り方というのは、自分の内なるもう一人の自分との対話ということにならないだろうか。

そうであるならば、人生の中で起きる人間関係の変化は、「私」と特定の誰かの人格をもった人間同士の関わりといった表面的な出来事である以上に、次元的な深みの中で起こる「内なるもう一人の自分」との対話を進化させていく自己の純化のプロセスそのものであると言える。

この蠍座の新月は、この自己の純化、つまり‘私は私である’という独自性の基盤をつくり上げていくというタイミングになりそう。

別の言葉で言うなら、この世界に存在している他者とは絶対的な差異をもった「不動の自己」の意識の位置を認識するということだ。

‘この世界で「私」と呼ぶことができる自分という存在はたったひとりしかいない。’

‘自分と他者がいることを認識しているメタ視点がある。’