本当の自分を生きるための女性性の器
「女なるもの」が失われた世界
ここでいう「女なるもの」とは真の女性性のことである。
かつて高貴な女性性として尊ばれていた地母神や国産みの女神たちの堕落の神話が物語るものは、人間意識の中での出来事を反映している。
真の女性性とは「全体性の生命」のことであり、自我がなくなって万物と一体化した「無意識」のことである。
そして、ここから生まれるのが純粋な創造的欲求だ。
それに対して、真の女性性の創造的欲求を表現し形にするために才能の発揮し、思考や行動をしていこうとする「精神」が真の男性性であり、それは自我を確立させた「個体性の生命」のことである。
この意味において、真の男性性とは‘意識化された真の女性性’とも言える。
女がはじまりで男はその中から生まれる。
しかし、現代の社会というものは、無意識のカオティックな本能的感情であり、荒ぶる母なる自然でもある女性性を制御し、それを上手く活用ないし搾取しようとする父なる理性という男性性の支配によって成り立っている。
男性性の理性によって支配される社会とは、私たち一人ひとりの存在が社会システムという枠組み中のパーツや役割という「均質的にラベルが貼られた個体」の寄せ集めのような感覚にさせられると言っても過言ではない。特にそのパーツに番号が振り分けられ(マイナンバーやスコア)、いつでも使い捨てられ変えが効くというなからなおさらだ。
社会的個というパーツとしての私達はそのシステムが示す客観的な価値基準によって評価されるのだが、その基準で用いられるが目に見えて分かりやすいもの(見た目、所有物、権威、名誉、金銭的な富)と数値化(スコア化)だ。
資源、土地、食糧、お金など物質的なものと数字を組み合わせれば、いとも簡単に人の意識を有限性という制限の中に陥れ、恐怖や欠乏感を煽り、奪い合わせ、競争させるトップダウンのピラミッド構造的思想をマインドに埋め込めることができる。
しかし、前述したように、これは真の男性性ではない。
制限された世界の中で生きていると思い込まされている私たちの「エゴ(低次の自我)の理性」である。このエゴの理性は強迫観念的に「〜すべき」と私達を焚き付けてくる一般に男性性と呼ばれているものだ。
そして、このエゴの男性性の理性と対極にあるのが、「〜したい」という感情的で自動反応的な思考や行動をする「エゴの本能」で、これが一般的に女性性と呼ばれるが、これは真の女性性ではない。
有史以降の人間の集合意識がつくり発展させてきた社会というもの自体が、父なる男性性のアーキタイプによって作られており、社会の中のいかなる領域において必ずその頂点に君臨する父なる神の目(学校や会社や組織、世間一般や身近な誰かの目など)を意識させられるというように、そこには女(女性性)はいないのだ。
「いる」ことの能動性としての女性性の器
真の女性性は器を生み出す。
それは魂の器であり、命の器でもある。
ー何かを「する」かわりに、ただ「いる」こと。
その意義を見出すことは大切だ。
そこにこそ、自分の内面を見つめるという女性性の特性があるからだ。
「器の中で何が起き、中身がどう変化するかは器の質にかかっている。 器磨きのプロセスも大切だ。その器に与えられるものや、その器を通り抜けていくものを受け入れるためにも。内側からも外側からも、両面が一つになるまで、器が透明になるまで磨くべきだ。複雑ではない。単純だ。だが難しい。真摯に向き合わねばならないからである。
自分で「いる」には自分を受け入れ、その中にとどまり、自己主張して何かをしようとしないでいることだ。誰にも褒められなくて結構、という姿勢が要る。(中略)ありのままをよしとし、周囲と調和を保っていれば、作って宣伝して環境汚染までして幸福を追求しなくなるだろう。ただ「いる」のは消極的とは違う。意識を集中する必要がある。」 ジョーン・サザーランド
「魂の器は私という器につながるものです。必要なものは全部自分の中にある。私は偉大な器、満ち足りた巨大な子宮。それはどこに行こうと変わらない。器の中に家がある。単に受け身でいるのではありません。キリスト教以前、器はとても積極的な意味合いを持っていました。変化と癒しをもたらす道具だったし、器を作るのは女と決まっていました」。
ヴァレリー・ベクトル
女性性の器は本来、環境を生み出し、土台を根底から覆す力をもっている。
だから環境を変えずにやり方だけ変えても女性性は力を発揮できない。
現行の社会システムという環境の中で自分らしさを求めるのではなく、この環境そのものをひっくり返して全く新しい環境をゼロからつくり上げていく必要がある。
これが、冥王星・山羊座時代が今、崩壊している中から取り出すエッセンス(本質)であり、冥王星・水瓶座の新時代へ持ち越していけるもののように感じる。