自分とは目の前の世界そのものだった
’そこから見ると、
生と死、現実と空想、過去と未来、伝達の可能と不可能、高さと深さなどは
もはや対立とは思われない。’
(フランス人作家・アンドレ・ブルトン)
私たちはいつから自分と世界(純粋な知覚体験)を分離してしまったのだろう?
<わたし>(という自我意識)が生まれた瞬間、時間と空間(の概念)も生まれたから。
その時からもはや「<わたし>は世界そのもの」ではなくなってしまった。
果てしない時間と空間(の概念)が広がる世界の中(という概念認識)で生きている<わたし>(という自我意識)と、たくさんの<あなた>(という他我意識)は、みな同質的で、小さな存在のひとりに過ぎないと感覚させる。
そもそも、なぜ<わたし>と<あなた>は在るのか?
新しい世界を創造するため。
そして世界を創造することとは「観ること」でもある。
「観ること」を成立させるために「観るもの(能動的視点)」が必要であり、それは同時に「観られるもの(受動的視点)」をつくる。
この「観るもの」と「観られるもの」の対極関係が<わたし>と<あなた>だ。
さらにこの<わたし>と<あなた>という2つの視点を成り立たせ、その対極性を生んだ因果でも目的ある第3の視点がある。
それは、この瞬間瞬間に世界を表出させている、時間と空間を超えて直交する眼差し(観測者の目)のことだ。
この視座から観るとき、
- <わたし>と<あなた>
- 表と裏
- 生と死
- 光と闇
- 善と悪
- 大と小
- 高と低
- 天使と悪魔
・・・・・など、私たちが普段、相反するものと認識しているものは’ひとつ’のものに観える。
すると「世界」と「自分」もひとつのものを成立させている二元性の表現に過ぎないのだとわかる。
これが再び「自分」と「世界」が一体になる瞬間だ。
■人生(世界)は<わたし>の多次元意識が織りなす壮大な舞台?!
「世界=自分」だとすれば、そこで展開される人生もまた全て自分そのものと言えるのではないだろうか?
とすれば、人生とは自作自演の内的なひとり舞台のようなものなのかもしれない。
ただし、人生(世界)を射影する自分の意識の次元はそれぞれ異なるが。
『お題目:人生』
- プロデューサー:自分(無意識、全次元意識のシステムを動かしている根源的叡智)
- 監督:自分(無意識、上位次元の意識)
- 脚本:自分(無意識、アストラル体、魂)←主演のレベルによっては書換えが可能?
- 主演:自分(自我)←人生の主役だと思っている視座
- 助演:自分(無意識、自己が反転した他者)
- エキストラ:自分(無意識、自己が反転した複数の他者)
- 舞台セット・道具:自分(無意識、自己と他者の関係性が反映されたもの)
そして、
- 観客:自分(自我&無意識)!
問題は、私たちがこのことをすっかり忘れてしまっていることだ。
いや、忘れていることすら忘れてしまっているということだろう(笑)。
その意味で、誰もが自分の出自を忘れた記憶喪失者だと言える。
それもそのはず、主演の自分以外は全て無意識領域の自分なのだから。
・・・・ということは自分とは無意識のこと?
つまり「自分=世界=無意識」?
この続き(があるのならば)また次の機会に♪